11月1日礼拝

創世記32章22~32節 「ヤコブの帰郷」

 ヤコブが伯父ラバンでの生活を終えて自分の故郷に帰りますが、そこで避けることができない一つの問題がありました。それは20年前に喧嘩別れした兄エサウとのことです。ヤコブはエサウを欺き、彼から長子の権利と祝福を奪い取り、そのために彼の怒りを買って、故郷から逃げ出さなければならなかったのです。エサウが住むエドムに前もって使いを遣わし、エサウも四百人の者を引き連れて迎えにやって来るという報告を受けた時に、ヤコブは非常に恐れました。この時彼はてっきりエサウたちが自分を攻撃しに来るのだと勘違いしてしまったのです。彼は早速、作戦を立てます。人々や家畜の群れを二つのグループに分けて進ませました。それは(8)どちらか一方が襲われても、どちらかは助かるだろうと考えたからです。そして神に祈ります。(12)「どうか、私の兄エサウの手から私を救い出してください。私は恐れています。」彼の心は恐れに支配されていました。彼はこのように神に祈りながらも、その夜、更に作戦を立てます。彼は兄エサウへの贈り物を選び、自分より先に行く贈り物によってエサウをなだめてから、その後に会おうとしました。そうすれば、エサウは自分のことを赦してくれるかもしれないと考えたのです。

 ヤコブはその夜のうちに、妻たちと子供たちを連れて、自分の持ち物と共にヨルダン川の支流のヤボク川を渡らせますが、ヤコブだけが一人その場に残ります。すると、一人になったヤコブに「ある人」、つまり神の使いが格闘を挑んできたのです。それは夜明けまで続きました。その人はヤコブに勝てないのを見て、彼のももの関節を打ち、その関節は格闘しているうちに外れました。ももの関節は人が足を使って歩くために大切な器官です。そこを打つということは、歩けなくなることであり、ヤコブの自我を打ち砕くということです。(26)すると、その人は「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」とその場を去ろうとしますが、しかしヤコブは「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」としがみついて絶対に離そうとしません。ヤコブはこの時、ももの関節を打たれて、自分にはどうしても神の祝福が必要だと気づくのです。(27)その人は、「あなたの名は何というのか」と言うと、彼は「ヤコブです。」と答えます。これに対してその人は(28)「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と闘って、勝ったからだ。」と答えます。このことは名前が変わっただけではなく、ヤコブ自身が自分により頼む者から、神により頼み、神が支配する人生へと変えられたことを意味します。

 いよいよ兄エサウとの二十年ぶりでの再会の日がやってきました。もう昨晩までのヤコブではありません。エサウが四百人を連れて向かってくるのが見えましたが、心に恐れはありませんでした。もう贈り物を先に行かせるようなことはせず、ヤコブが先頭に立って進んで行きます。エサウに深く、丁寧に、心から詫びる気持ちでお辞儀して進んで行きました。するとどうでしょう。(4)エサウは走って来て、ヤコブを強く抱きしめました。20年の時を経てエサウの怒りは消えていました。神は、兄弟の和解という祝福を用意してくださっていたのです。これまでヤコブの生涯を通して、私たちは自分で自分を変えることはできませんが、神は変えてくださることを教えられます。もうヤコブとは呼ばず、イスラエルとして新たな歩みをさせてくださるのです。信仰生活とは、神が勝利し、神が自分の人生をご支配してくださることです。そしてその時、私たちは神を仰ぎほめたたえることができるのです。

10月25日礼拝

創世記28章10~22節 「ヤコブの旅立ち」

 ヤコブは父をだまして兄を出し抜くという行為の報いとして、故郷カナンと家族を離れることを余儀なくされますが、この旅をきっかけとして、神と出会い、神との関係が大きく変化していきます。ヤコブは今、住み慣れたベエル・シェバを後にしてハランへと旅立ちます。一人旅の上に兄との確執や父母との別離など複雑な思いがあったことでしょう。ヤコブはこれまでは父イサクのもとで何一つ不自由のない生活を送っていました。しかし今や、ヤコブは一人になって不安と恐れ、心細さと孤独をかみしめながら、600キロにもなるハランへの旅を続けなくてはなりませんでした。孤独な荒野の旅路で、ヤコブは自分が父や兄にしたことに向き合わされ、これからどうなるのかと不安に思っていたことでしょう。日が沈んできた頃、ある場所にたどり着いたので、そこで一夜を明かすことにしました。彼はその場所で石を取って枕にし横になりました。暗闇の中、獣に襲われるかもしれず危険なことでした。ヤコブは自分の孤独と無力さとを痛感させられたに違いありません。不安な気持ちも湧いてきたでしょう。それでも疲れ切っていたヤコブはいつしかぐっすり眠ってしまいました。

 (12)その夜、彼は不思議な夢を見ました。一つのはしごが天から地面に向けて下りていて、その頂は天に届いていました。そして、そのはしごの上を神の使いたちが上り下りしていました。この光景は、地は限りなく天に結ばれていて、神のみわざが天においてだけでなく、地上でもなされ続けていることを表しています。印象的な光景を見せながら、神はヤコブの傍らに立って語りかけます。「約束の地をあなたとあなたの子孫に与え、子孫は地のちりのように多くなり、すべての部族はあなたとあなたの子孫によって祝福される」と。兄エサウの空腹の時に奪い取った長子の権利、母の手引きにより父をだまして受けた祝福、本当に自分は祝福を受け継ぐ資格があるのかと疑ったかもしれません。しかしこの時、ヤコブが、神の祝福の継承者であることが、他でもない神ご自身によって宣言されたのです。(15)「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」ヤコブは主のことばを聞いてどんなに慰められたことでしょう。彼が抱いていた不安と恐れは消え去りました。

 (16)ヤコブは眠りから覚めた時、「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」と告白します。主はベエル・シェバの父の所に、あの祭壇の傍らだけおられると思っていました。しかしヤコブは今、この旅路の中に主が共におられることを知ったのです。ヤコブはこの主の臨在に触れた時、恐れおののきました。(17)「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」誰も住んでいないと思われた荒野は、実は「神の家」でした。それ以前は、孤独を恐れ、不安におののいていましたが、今は聖なる主を前にして恐れおののいたのです。ヤコブは翌朝早く起きます。彼は主の臨在の体験を記念して、枕にしていた石を立てて石の柱とし油を注ぎました。そしてその場所の名をべテル、つまり「神の家」と名づけました。それからヤコブは誓願を立てて応答の祈りをします。そして自分に現れてくださった神に対して捧げものをすると約束しました。私たちもまた地上を旅する小さな旅人です。しかしインマヌエルなるお方がいつも共にいて旅路を守ってくださいます。生涯必要なものを備え養い育ててくださいます。そしてやがて旅路の終わりへと完成させてくださいます。日々、自分に語られる主のみ声を聞き、その御声に応答して祈る者とさせてください。あなたの絶えざる恵みにお答えしていけますように。

10月18日礼拝

創世記25章27~34節,27章1~10節 「エサウとヤコブ」 

 イサクは40歳の時、妻リベカを迎えます。リベカは子どもを身ごもりますが、双子であったため、体内で子どもたちが押し合っていました。不安を覚えたリベカは主のみこころを尋ね求めると、(23)「兄が弟に仕える。」と告げられました。この神の約束はその後の兄弟の生涯を決定づけるものとなります。誕生した双子の兄弟エサウとヤコブの性格は対照的でした。長男エサウは猟師となり活動的でした。次男のヤコブは天幕に住み「穏やかな人」でした。ある日のこと、ヤコブが豆の煮物を作っていると、エサウが野原から帰ってきて「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。疲れきっているのだ。」と頼みます。(31)するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売ってください。」と長子の権利を求めました。長子の権利とは、二倍の財産を受け継ぐ権利であり、祖父アブラハムが神様からいただいた特別な祝福の約束を受け継ぐ権利でもありました。我慢できなかったエサウは、一杯のレンズ前の煮物と引き換えに、自分の「長子の権利」をたやすく売ってしまったのです。(34)「こうしてエサウは長子の権利を侮りました。」彼は目に見える物質的なものに価値を置き、その下に神の祝福を置いたのです。一方ヤコブは神の祝福を切に求めました。

 父イサクは年を取り、視力が衰えてきた時、この地上での日は長くないと感じたので、長男のイサクを呼び、家督を継承するために祝福を与えようとしました。(4)獲物を捕って、「私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、私自ら、おまえを祝福できるように。」しかし、このことは主のみこころに反することでした。「兄が弟に仕える」という神の約束を聞いていますし、またエサウが一杯のレンズ豆のスープで長子の権利を売ったのも知っていたはずです。それにもかかわらず自分の思いを優先してエサウに祝福を与えようとしたのです。(5)一方、妻のリベカは、イサクがエサウを祝福しようとしているのを知り、その祝福を横取りして弟ヤコブに与えようとします。本来ならば、神の約束を信じて待つべきだったのですが、待つことをせず、自分たちで横取りしようとしました。(14)母リベカは、父イサクが好むおいしい料理を作り、家の中にあったエサウの匂いがする晴れ着を着させ、兄の手は毛深かったので、「子やぎの毛皮を、ヤコブの両腕と首の滑らかなところに巻き付け」ました。ヤコブはエサウに扮して母が作ったおいしい料理を父のところに持って行き、父をだまして祝福を奪ってしまうのです。

 (30)イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くとすぐに、兄のエサウが猟から戻って来ました。(31)「お父さん。起きて、息子の獲物を召しあがってください。あなた自ら、私を祝福してくださるために。」と声をかけます。イサクは一瞬自分の耳を疑いました。おまえは誰かと尋ねると、「私はあなたの子、長男のエサウです。」と答えが返ってきました。この一言を聞くや「イサクは激しく身震いして」言いました。(33)「では、いったい、あれはだれだったのか。~私はみな食べてしまい、彼を祝福してしまった。彼は必ず祝福されるだろう。」エサウは父のことばを聞くと激しく泣き叫びましたが、祝福がエサウに与えられることはありませんでした。聖書はこのように、私たち人間の罪や愚かさがが引き起こすもろもろの現実を隠すことなく伝えています。そして、このような人の愚かさにもかかわらず、神はわたしたちをあわれみ、ご自身の真実をもってご計画を進められます。あなたを選ばれた神は、あなたの弱さや欠けにもかかわらず、あなたを用い、ご自身の御業をなしてくださるのです。(哀歌3:22)「主のいつくしみは決して絶えない。主のあわれみは決して尽きない。」私たちは主のいつくしみとあわれみがなければ立ち行かない者です。主に望みをおいて歩んでまいりましょう。

10月11日礼拝

創世記22章1~14節 「イサクをささげる」

 「これらの出来事の後」、つまりイサクの誕生後、神はアブラハムを試練にあわせられました。(2)「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」自分の息子イサクを全焼のいけにえとして捧げなさいと命じました。イサクは神の約束の子としてやっと与えられたのに、どうしてその子を全焼のいけにえとして捧げよと言われるのか、彼がいなくなれば子孫を増やし、子孫によってあらゆる民族を祝福するという約束は途絶えてしまうのではないかと思ったことでしょう。この命令を聞いたアブラハムの様子は聖書には記されていませんが、かなり混乱し動揺したことは容易に想像することができます。ウルやハランでの安定した生活を手放し、神に従い続けてきた人生です。しかし、イサクを全焼のささげものとしてささげるということは、アブラハムがこれまで経験した中でも間違いなく最大の試練でした。

 「翌朝早く」アブラハムはろばに鞍をつけて、二人の若い者と一緒に、息子イサクを連れて行きました。何も知らされていないイサクを伴って、神が示された場所へと向かいました。三日目に、遠くの方にその場所が見えてきました。アブラハムは若い者たちを残し、薪を取って息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取って、二人だけで一緒に進んで行きました。すると突然、イサクが「お父さん。」と呼びかけます。恐らくイサクはいつもと違う雰囲気を感じていたのでしょう。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」と尋ねます。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」アブラハムは「神が備えてくださる」としか答えようがありませんでした。二人はいよいよ告げられた場所に着きます。アブラハムは深い沈黙のうちに祭壇を築き、薪を並べ、息子のイサクを縛って祭壇の薪の上に載せ、息子を屠ろうとしました。アブラハムは、神の不条理な命令につぶやくこともなく嘆くこともせずに、従っていきました。どんな理不尽と思えることでも、今は神のみこころが分からなくても、愛の神は決して悪いようにはされないという神への信頼と信仰をアブラハムのうちに見ることができるのです。

 アブラハムが正に自分の子を屠ろうとした時、「アブラハム、アブラハム。」と主の使いが天から呼びかけました。主は、アブラハムの行為とその心を見ておられました。彼がイサクをささげたと認めた時、ついに御声をかけられたのです。(12)「この子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神をおそれていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」そこで、アブラハムが目を上げてみると、そこに一頭の雄羊がいました。彼はそれを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げました。そしてアブラハムはこの場所を名づけて「アドナイ・イルエ」と呼びました。つまり「主が備えてくださる」、「主が見てくださる」という意味です。主はアブラハムのこれまでの苦しみや葛藤のすべてを見ていてくださり、必要な助けを備えていてくださいました。私たちもどうしたらよいか分からなくなり立ち止まってしまうことがあるでしょう。その時すべてのことを心に留めて必要な助けを備えてくださるお方が共におられるのです。アブラハムに倣い、「主の山には備えあり」の信仰をもって歩ませてください。

10月4日礼拝

創世記11章31節~12章8節 “アブラムの旅立ち”

 アブラムの家族が住んでいたのは、カルデヤ人のウルでした。そこでは月を神として礼拝し、偶像礼拝が盛んに行われていました。彼らはバベルの塔の出来事以来、主から離れ、偶像の中に身を置いていました。しかし、主はそのような中からアブラムを召し出されるのです。テラ一家はカナンの地に向けてウルを出発します。アブラムとその妻サライ、そして孫のロトも一緒でした。それは非常に大きな決断であったはずです。住み慣れた地であり、人とのつながりも蜜であった自分の町にとどまれば生活に不自由はなかったでしょう。しかしこの一家は新たな一歩を踏み出しました。それは、「ほかの神々に仕えていた」生活から離れることを意味します。主は彼らをウルから呼び出し、アブラムを通して、新しい地で信仰による神の民を形づくろうとされたのです。(31)「しかし、ハランまで来ると、彼らはそこに住んだ。」ハランはウルからカナンへの途中にある地です。彼らはウルからカナンに行くはずでしたが、ハランという町に来ると、そこに住みついてしまいました。そこも月を拝む偶像礼拝が行われていました。テラとその一行は、カランにほんの少しの間滞在するつもりだったのかもしれません。町々を結ぶ通商路の近くにあり、商業の中心地でした。この地で一家は蓄財するほど成功を収めていたようです。彼は同じような偶像礼拝が行われていたハランにとどまって、以前のような生活に逆戻りしてしまったと思われます。そしてテラはハランの地で死にました。

 その時、主はアブラムに再度声を掛けられました。(1)「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」アブラム七十五歳の時でした。恐らくウルにおいて語られたことがもう一度繰り返されたのだと思われます。主のみことばがアブラム再出発のきっかけとなりました。(2~3)「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民として、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。」アブラムから多くの国民が分かれ出て、あなたの名は大いなるものとし、「信仰の父」と呼ばれるようになると言われます。そして、アブラムが祝福されるだけでなく、アブラム自身が祝福となり、彼が他の人に祝福を取り次ぐ器となります。「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」アブラムとその子孫によって、神の祝福がすべての民に及んでいきます。究極的には、アブラハムの子孫イエス・キリストにより、その福音によって、すべての人々が救いに預かることを意味しています。そして、主は私たちをも人々に祝福を取り次ぐ者としてくださるのです。

 アブラムは神の御声を聞いた時、(4)「主が告げられたとおりに出て行き」ました。どこにいけばよいのか、「わたしが示す地」というだけで、具体的にはさっぱりわかりません。いろいろと不安があったでしょうが、信仰によって主のことばを信じて旅立ちました。カナンに入ると、そこにはカナン人が生活していました。アブラムは動揺したでしょう。約束の地は誰も住んでいない地ではなかったのです。しかしその時、主はアブラムに現れて「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」と約束されました。アブラムは主の語りかけを聞いた時にどんなに励まされたことでしょう。アブラムは行く先々で祭壇を築き、信仰を新たにしました。行く手には神ご自身がおられます。神様は私たちの歩みを守ってくださいます。主に信頼してお従いしていきましょう。

9月27日礼拝

創世記11章1~9節 「バベルの塔」

 ノアの子孫は一つのことばを用いていました。そして、人々は東の方へ移動し、彼らはシンアルの地、つまりバビロニアの地に平地を見つけてそこに住むようになりました。人々は住みよい地を探し求めて移住し、そこで町を作り、文明・文化が形成されていきました。そこで彼らは、「さあ、れんがを作って、よく焼こう。」と言い、石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いました。「瀝青」とはアスファルトのことを指しています。彼らは建築の面でも技術を向上させ、「れんが」を作り、頑丈で高層の建物を造ることができるようになっていました。(4)「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」ここで彼らが建てた塔とは、「ジッグラト」のような高い塔であったと思われます。「ジッグラト」とは、山の形をしたもので、頂は天に見なされ、天地を結ぶ神殿としてあがめられました。彼らは自分たちの力で神に近づき、神に対抗しようとしました。人は技術が進歩し、文化文明が発達するにつれて、神の栄光よりも自分の栄光を求めるようになっていったのです。

 (5)「そのとき主は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られ」ました。神による介入です。人間が造る塔は、主ご自身が降りて来なければ見ることができないほど低く小さなものだったのです。(6-7)主は言われました。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」主は、洪水から助け出しても、人の罪の性質は何ら変わりがなく、それどころか、なまじ言葉が一つであるだけに、一致団結して悪を行い、このままにしていたら大変なことになってしまうと嘆かれました。そのため、主がとった方法は、(7)「彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないように」することでした。人間はバベルの塔を建てて、自分たちの力を誇示しようとしましたが、これ以上罪を犯すことがないように、神様は彼らのことばが互いに通じないようにしたのです。

 (8-9)彼らはことばが通じなくなり、意思の疎通がうまくいかなくなり、地の全面に散らされたので、塔を建てることを諦めました。言葉が通じる人同士で、違う場所に移っていきました。「散らされたくない」と思っていたのに、神様のご計画通りに全地に散らされることになったのです。そして、その町の名は「バベル」と呼ばれました。「混乱」という意味であり、この地の人々は自分たちの力で塔を造り神に対抗したように、神から離れた罪の生き方を表しています。結局、主が散らされたので、町は残りませんでしたが、皮肉にも、町の名は後世に語り継がれるようになりました。主は降りて行って、人々のことばを混乱させ、地の全面に散らされたので工事はもうこれ以上進めることはできませんでした。主は私たちの歩みの中にも降りて来てくださいます。日々積み重ねてきたものが突然崩れたり、もうこれ以上前に進めなくなる時があるかもしれません。偶然といえば偶然、誰かのせいと言えばそう言えるかもしれません。でもそれは神の介入の時とも考えることができます。起きてくる出来事を通して、主は私に何を語っておられるのか?何を伝えようとしているのか?思い巡らす時を持つことが大切です。そして主は私たちがだめになるためではなく、私たちが最も良い道を進んでいくために愛をもって介入してくださるのです。そのことを心に留めてまいりたいと思います。

9月20日礼拝

創世記8章15~22節、9章11~16節 「契約の虹」

(1)「神は、ノアと、彼とともに箱舟の中にいた、すべての獣およびすべての家畜を覚えておられた。神は地の上に風を吹き渡らせた。すると水は引き始めた。」神はノアとその家族、すべての家畜たち動物たちを覚えておられました。心に留めておられました。そしてついに、神が地の上に風を吹き渡らせると、水は地から次第に引き始めました。洪水からちょうど150日後に、箱舟はアララテの山地にとどまり、水はなおも減り続け、約三か月後には山々の頂が現れました。ノアは、水が減り始めてから、箱舟の窓を開いて烏を放ちました。それは地が乾いているかどうかを見るためでしたが、烏は地が乾くまで出たり入ったりしていました。その後、ノアは水が引いたか確かめるために、鳩を放ちました。鳩は足を休める場所が見つからなかったので、そのまま戻ってきました。それからさらに七日待って鳩を放つと、夕方になって、オリーブの若葉をくちばしにくわえて戻ってきました。水はかなり引いていました。さらに七日待って鳩を放つと、もう鳩は戻ってはきませんでした。水は完全に乾きました。

(16)ノアは「箱舟から出なさい」と命令されて、ノアとその家族は動物たちと一緒に外に出ました。そして、ノアが外に出て一番最初にしたことは何だったでしょうか?それは神様を礼拝することでした。ノアにとって、箱舟を出てからしたいこと、しなければならないことはたくさんあったに違いありません。しかし何はさておき、彼は神への礼拝を優先しました。(21)「主は、その芳ばしい香りをかがれ」ました。ささげられた香りは、祈りを意味します。神はノアの礼拝・祈りを喜ばれました。そして、「心の中で」次のように言われました。(21)「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしない。」人が心の中で思い図ることは悪であり、再び洪水で生き物を滅ぼすようなことはしないと約束されました。また、「この地が続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜がやむことはない。」と、洪水によって失った自然秩序の回復を約束されました。

 そして神はノアと一つの契約を立てられました。(9)「見よ、わたしは、わたしの契約をあなたがたとの間に立てる。」この契約は神の側からの一方的な契約であるところに、大きな特徴があります。そして、その契約のしるしは何でしょうか?(13)「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それが、わたしと地との間の契約のしるしである。」契約のしるしは「虹」です。なぜ虹が選ばれたのか?それは虹がどこからでも見ることができるものであり、また戦いの後の「平和」を意味するものであったからでしょう。「虹」ということばは、本来「弓」を意味します。聖書には神が悪人に対して弓を向けられるという比喩があります。大空に虹(弓)がおかれることは、神の怒りが過ぎたことを示しています。(16)「虹が雲の中にある時、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべての肉なるものとの間の永遠の契約を思い起こそう。」と言われました。たとえイスラエルが罪を犯して主の契約を破ることがあっても、主はご自身の契約を思い出し守られるというのです。神は二度と人間の罪ゆえに洪水によって滅ぼすことがないと約束されました。人間を滅ぼすのではなく、罪から救う道を選んでくださったのです。そして今、私たちはイエス・キリストによる新しい契約が与えられています。主の大きな恵みとあわれみに感謝して主に信頼して歩む者とさせてください。虹を見るたびに主のあわれみを思い起こさせてください。

9月13日礼拝

創世記6章13~22節 「ノアと箱舟」

 「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」という神のみこころに従い、人は地上にどんどんと増え広がっていきました。しかしそれと同時に悪も増え広がっていきました。神は被造物である人間を特別に「神のかたち」にお造りになりましたが、神から離れ、自己中心に生きる者として増え広がっていったのです。(5)「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。」(6)「それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛め」ました。それで主は、洪水によってすべてのものを一掃することを決意されます。しかし、そのような中、(8)「ノアは主の心にかなって」いました。また(9)「ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩」みました。このような暴虐の時代にあっても、ただ一人、ノアだけは主のみこころにかなっていました。これは、ノアが罪を犯さない完璧な人だったということではなく、神様を信頼して歩んでいたということです。周りの人々がどうであれ、ノアは神を心から愛し、信頼し、従っていました。

 神はノアとその家族を救い出すために、ノアに箱舟を造ることを命じました。箱舟の大きさは、長さが三百キュビト(約132m)、幅が五十キュビト(約22m)、高さが三十キュビト(約13m)で、この大きさは、たくさんの荷を運ぶのに頑丈で理想的なバランスと言われています。おそらく1万五千トン級の船であったと思われます。三階に分かれ、出入り口が側面に、また外の様子が分かるように天窓が取付けられました。神は大洪水によって「いのちの息のあるすべての肉なるものを」滅ぼそうとされましたが、(18)「しかし、わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは、息子たち、妻、それに息子たちの妻とともに箱舟に入りなさい。」と命じられました。神はノアだけではなく、妻と三人の息子たち、その息子たちの妻も一緒に箱舟に入るようにされたのです。私たち一人一人が救われるのはもちろんですが、その家族が救われ、クリスチャンホームが形成されること、それが神様のみこころと言えます。また、神はすべての動物がそれぞれ雄と雌二匹ずつを箱舟に連れて入るように命じました。(22)「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」ノアにとってこの命令はとても難しかったことでしょう。しかしノアは神の命令に聞き従い、周りの人たちの目を気にせず、箱舟を造り上げたのです。

 長い年月をかけて、箱舟は遂に完成しました。舟を造り始めてから完成まで数十年かかったと思われます。神はノアに(7:1)「あなたとあなたの全家は、箱舟に入りなさい。」と命じました。ノアの生涯の600年目の第2月17日、ノアとその家族8人、動物たちは箱舟に入りました。大雨は40日40夜降り続けました。大洪水が起こり、水かさが増し、箱舟は地から浮き上がりました。ノアたちが箱舟の中から見た、地上の光景はどんなだったでしょう。高い山も水にのみこまれました。(24)「水は百五十日間、地の上に増し続けました。」私たちも、家族や友人にイエス様の救いを話しても信じてもらえないことがあるかもしれません。しかし、神は人々が悔い改めて神に立ち返るのを待っておられるのです。主はノアが箱舟を造っている間も忍耐をもって人々の悔い改めを待たれていました。最後の一週間もノアたちを通して神のさばきと救いが宣べ伝えられました。主イエスが再び来られることを心に留めながら、家族や人々の救いのために祈り、イエス様の愛を宣べ伝えていけますように、私たち一人一人を用いてください。

6月21日父の日礼拝

ルカの福音書5章17~26節 「友よ、あなたの罪は赦された」 

 主イエスがカペナウムに戻られたことを聞き、多くの人が集まって、主が語る教えに喜んで耳を傾けていました。家には人があふれ、部屋には熱気が満ちていました。今回はパリサイ人や律法学者たちも同席していました。彼らは日増しに高まるイエスの評判を聞き、イエスの行動を冷ややかな目で見ていたのです。すると、4人の男たちが「中風」を患っている人を癒していただこうと床に載せたまま運んできました。「中風」とは、身体の一部分の麻痺のことを言います。しかし、家の中は大勢の人たちでいっぱいで、戸口まで人があふれていて、とうてい中に入れそうにありませんでした。すると4人の男は家の外階段を上り始め、家の屋根の上に上がると、イエス様がいらっしゃる当たりの屋根の瓦をはがし始めたのです。そして天井に穴を開けると、四人はそこから寝たままの病人を、イエス様の前につり降ろしたのです。そこに居合わせた人たちはさぞかし驚いたことでしょう。

 イエス様は彼らの信仰を見て(20)「友よ、あなたの罪は赦された」と言われました。イエス様が見ておられたのは「彼らの信仰」でした。一見すると彼らの行動は非常識です。しかし、このお方なら必ず癒してくださる!と信じて疑わなかったからこそ、彼らはこれほど大胆な行動をとることができたのでしょう。ここに、彼らの信仰がありました。でもなぜイエス様は癒しを求めていた中風の人に「罪の赦し」を宣言されたのでしょうか。それは、イエス様が見ておられたのは病人が抱えている病気だけではありませんでした。その病気によってその病人が抱えているすべてのことを見ておられたのです。当時のユダヤ社会では、病気は罪の結果ととらえられていました。中風の人は、病気による肉体的苦しみだけではなく、罪人のレッテルを貼られてきた精神的苦しみ、社会から疎外されてきた社会的苦しみをも抱えていたことをイエス様は見て取られました。それゆえ、先ずは罪の赦しの宣言をされたのです。病気の癒しもうれしいことですが、社会的に「罪人」と見なされてきた中風の人にとって、罪の赦しの宣言はどれほど慰めであったでしょうか。

 (21)ところが、そのことばを聞いた律法学者やパリサイ人たちはあれこれと心の中で考え始めました。「神への冒涜を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」そのように心の中でつぶやいたのです。彼らはイエスが罪を赦すと口にするだけなら易しいことだ。目に見える証拠がないのだから、と思っていたのです。しかしイエス様は彼らのつぶやきを知り、(24)「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために―。」と言って、中風の人に「起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」と命じると、彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担いで、神をあがめながら自分の家に帰っていきました。主イエスは、人々の目に見える形で、中風の人を癒すことによって、ご自身に罪を赦す権威があることを示されました。病が癒されることは素晴らしいことです。しかし、この中風の人が神を賛美し、神と共に生きる人生の喜びに目覚めたことは、もっと素晴らしいことではないでしょうか。聖書は、罪赦されて、神様との関係を回復し、神様と共に歩む人生にこそ、私たちの本当の幸いがあることを伝えています。この人は罪赦されて大きな喜びに包まれました。喜びがなくなり、自分が犯した罪を思い返すことがありますが、主は「あなたの罪は赦された」と宣言されるのです。あなたの罪は主にあって赦されています。そして御霊によって喜びが与えられているのです。この喜びを誰かにお伝えしましょう。

6月14日礼拝

ルカの福音書4章31~41節 「このことばは何なのだろうか」

  話の舞台となっているのは「ガリラヤの町カペナウム」という場所です。主イエスのガリラヤ伝道において拠点となった町です。主イエスは、安息日には会堂に行き、人々を教えておられました。「人々はその教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。」とあります。イエス様の教えを聞いた人々はとても驚きました。他の教師たちの話とは全く違い、そのことばには権威がありました。彼が生きた神のことばそのものだったからです。人々はその教えに驚きました。その日も、会堂で皆が礼拝を捧げ、イエス様の教えに耳を傾けていますと、悪い霊に苦しめられていた人が大声で叫びだしました。「ああ、ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのかを知っています。神の聖者です。」悪霊はその霊的な能力により、イエス様が神の子であることを知っていました。イエス様は悪霊が物を言うことを許さず、「黙れ、この人から出て行け」と言われると、悪霊はたちまちその人から出て行きました。この出来事を見ていた人たちは、「このことばは何なのだろうか。権威と力をもって命じられると、汚れた霊が出て行くとは。」と言って、命じただけで悪い霊を追い出すおことばの力に驚きました。ここで注目したいことは悪霊の方から叫び声をあげたということです。悪霊は神の子を前にして黙っていられなかったのでしょう。聖書を読んでいくと自分の本当の姿に気づかされます。みことばは、人の罪を示し、この罪のために死なれた主イエスの十字架へと私たちの思いを導かれるのです。イエス様は「黙れ。この人から出て行け」と、あなたを縛り不自由にしているものを、あなたの中から追い出してくださるのです。

 その後、イエス様は礼拝を終えて、立ち上がって会堂を出て、弟子のペテロの家を訪ねました。家の中ではペテロの姑さん、つまりペテロの奥さんのお母さんが、ひどい熱で苦しんでいましたので、人々はイエスに癒してくださるように願います。(39)「イエスがその枕元に立って熱を叱りつけられると、熱がひいた。彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。」彼女は熱が引いたばかりなのに、すっかり元気になって起き上がり、喜んでイエス様たちをもてなし始めました。(39)「もてなし始めた」ということばは、「仕え始めた」という意味です。彼女は単に病気を治してくださった感謝やお礼を超えて、癒されたことにより、主に仕えるようになったのです。イエスのことばは彼女の生き方をも変えました。

 皆さんは、どのようなみことばから力を受け励まされましたか?また驚きを受けましたか?昨日、召天者墓前記念礼拝がもたれました。私の母が召されてから今年で18年になります。母のことを思う時にいつも思い出すことがあります。それは母が臨死体験をしたということです。その時の経験を振り返って私に話してくれました。暗いトンネルのようなところを抜け、火花がぱちぱちと光っていて、とてもきれいな所だったと。その話を聞いて、この世の死で終わりではなく、聖書のことば通り「本当に天国があるんだ」という思いを強くしました。その時、神は臨終の母をも用いてご自身の栄光を現されたのだと思いました。現代に生きる私たちは、直接イエス様のことばを聞くことはできませんが、その代わりに聖書が与えられていて、この聖書を通してイエス様のことばを聞くことができます。イエス様の時代の人たちが、主のことばを聞いて驚いたように、今も昔と変わりなく権威をもって私たちに臨まれるのです。驚きをもってイエス様のことばに聞き、そのことばに生きる者としてください。