1月10日礼拝

マタイの福音書3章1~6節、13~17節 ”これはわたしの愛する子” 

 バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と宣べ伝えました。預言者イザヤによって(3)「荒野で叫ぶ者の声がする。主の道を用意せよ。主の通られる道を真っすぐにせよ」と言われた人でした。彼の使命は、救い主が来る前に、人々の心を救い主に向けさせ、メシアを迎えるための道備えをすることでした。「悔い改める」とは、ただ反省するだけではなく、心を180度方向転換させるという意味です。行動の変容が伴います。「天の御国が近づいたから。」とは、神が支配する国がどこかにあるといういうことではありません。「国」と訳されたことばは、元来ユダヤ人にとっては、目に見える国という具体的な意味ではなく、「支配すること」という抽象的な意味でした。つまり神の国とは、神が王として人々を支配するという意味です。イエスが王であるメシヤとしてこの地上を支配する時が近づいたから、罪を悔い改めて神の支配に従うようにとヨハネは宣べ伝えたのです。ヨハネの働きはたちまち評判となり、(5)「エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から」大勢の人が荒野にやってきて、(6)「自分の罪を告白し」て悔い改め、ヨルダン川の水に入りヨハネからバプテスマを受けました。

 (13)ガリラヤに住んでいたイエス様は、いよいよ神様の働きをする時が来たことを知り、ガリラヤの家族のもとを離れ、ヨハネがいる荒野に来られました。それは、ヨハネからバプテスマを受けるためでした。ヨハネは戸惑いました。ヨハネはイエス様と親類関係にありますので、主が自分より力のある方だと気づいていたことでしょう。主イエスは罪を悔い改める必要もなければ、バプテスマを受ける必要もありませんでした。(14)「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」と断ろうとします。(15)しかし主イエスは「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実行することが、わたしたちにはふさわしいのです。」と言われました。「正しいことをすべて実行すること」とは、神のみこころをすべて行うことでした。「正しいこと」とは、イエス様が人の姿を取ってこの世に来られ、ご自分を低くされ、十字架の死にまでも従われたことです。バプテスマを受けることも正しいことの一つであって、イエス様はヨハネと共にこのことを成し遂げようとされたのです。

 イエス様がバプテスマを受け、ヨルダン川の水から上がると、天から聖霊が下ってイエス様の上にとどまり天からの声が聞こえました。(17)「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」イエス様が確かに神から遣わされた、愛するひとり子であり、罪人をお救いになる救い主であることが示されたのです。これから公生涯をスタートするために、ご自分を低くされ、人と同じように、正しいこととしてバプテスマを受けられました。そして、これから十字架に向かっての歩みを進められます。神はバプテスマを受けた御子を喜んでおられ、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と祝福のことばを掛けられました。イエス様が確かに神から遣わされた愛するひとり子であり、罪人をお救いになる救い主であることが示されました。バプテスマが罪と汚れを洗い流すことであるなら、神の子である主イエスは受ける必要がなかったはずです。ヨハネもそれを感じていたはずです。でも主はあえてそれを受けられました。それは、ご自分が罪ある人間と全く等しい立場になるためでした。イエス様の十字架によって、私たちの罪は赦され、救われ、いのちが与えれたのです。罪深い私のために、神であるお方が人となってくださったことを感謝いたします。罪を赦しきよめてください。悔い改めにふさわしい実が結ばれていきますように。

1月3日新年礼拝

ルカの福音書2章41~52節 神と人とにいつくしまれ 

 (41)「さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。」この時イエスは12歳になっていましたが、両親に連れられて「過越の祭り」の巡礼のためにエルサレムに来ていました。ユダヤでは13歳で成人となり、律法を守る成人として数えられました。イエスが12歳ということは、巡礼の義務はありませんが、成人前の準備としての意味合いがあったのでしょう。祭りが終わり、一行がナザレに帰る時に出来事が起こりました。ヨセフとマリアは、イエスはナザレに戻る人たちの群れの中に混じっていると思っていました。しかし、一日の道のりを行った時点でイエスがいないのに気がつきました。イエスが迷子になってしまったのです。二人はイエスが親族や知人の家に立ち寄ったかもしれないと考えましたが、見つかりませんでした。イエスを捜しながら来た道を戻り、とうとうエルサレムまで引き返してきました。そして出発してから三日目に、両親はようやくイエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり、質問したりしているのを見つけたのです。(47)教師たちは、イエスの聖書に対する洞察の深さに驚きました。おそらく、イエスが教師たちにした質問にはすぐれた知恵が見られ、イエスの答える言葉には、彼らの理解にまさるものがあったのでしょう。

 (48)「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」やっとわが子を見つけたマリアは、すっかり取り乱していました。迷子になったイエスのことを心配して捜すうちに三日がたっています。さらに宮でイエスを発見したことは、マリアにとって大変なショックでした。予期していなかった場所にいたからです。そのためマリアは激しい調子でイエスを叱りました。(49)それに対してイエスは両親に次のように答えました。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」ここでイエスは、神を「自分の父」と呼んでいます。神が自分の父であること、自分が神の子であることを意識していたことが分かります。自分が父に関する中にいることは当然であり、この時すでに、自分には父に託された働きを行う使命があることを自覚していたのでしょう。しかし両親にはイエスが語られたことばが理解できませんでした。

 (51)その後イエスは、神殿にとどまることはしないで、両親と一緒にナザレに戻り、両親に仕えました。それから後、30歳からの公生涯に入るまでの約18年間、イエスは両親に仕えて過ごされました。父ヨセフのことは、この後聖書には出てきません。またイエスが「大工」として知られていたところを見ると、イエスはおそらく父ヨセフが亡くなった後、長男として家計を助けて働いておられたと考えられます。イエスは神の子であるという意識を持ちながらも、人として、息子として両親に仕えられたのです。(52)「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。」少年イエスは、神様に愛され、両親や周りの人々に愛され成長していきました。神の恵みが豊かにありました。2021年が始まりました。この年も主の恵みが、いつくしみが豊かにありますように。(Ⅱコリント12:9)「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」自分の力ではどうすることもできない無力さに主のみ力が現わされます。この一年も主の恵みのうちにお導きください。

12月27日年末感謝礼拝

ルカの福音書2章21~38節「主を待ち望んだ人たち」

 幼子が生まれてから8日がたち、ヨセフとマリヤは神の規定に基づき、幼子に割礼を施し、以前御使いが言われたとおりに、イエスと命名しました。そして、両親は生後40日のイエスを連れて、エルサレムを訪れ宮詣をしました。それは、長男として生まれた幼子を聖別して主にお捧げするためでした。また、律法の規定により、マリアの出産のきよめのための犠牲をささげる必要がありました。ヨセフとマリヤは貧しかったため、「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」をお捧げしました。彼らはすべてのことを律法に従って行いました。その時、エルサレムにシメオンという老人がいました。彼は正しい敬虔な人で、救い主がお生まれになることを待ち望んでいました。シメオンは神殿に行きますと、ちょうど、律法の慣習を守るためにヨセフとマリアもが赤ちゃんを連れて神殿に入ってきたのです。この幼子を見たとき、聖霊は彼にこの幼子が待望の救い主であることを示され、彼は幼子を抱き、神に感謝し讃美しました。シメオンは、晩年になってとうとう幼子にお会いして、これで自分も安らかにこの世の生涯を終えることができること、そして神の救いがイスラエル人だけではなく、「万民の前に備えられた救い、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光」と、万民のためのものであることを述べます。今自分が腕に抱いている幼子から出る救いの光が、罪に縛られている人々、暗闇の中にいる異邦人の世界を照らし出すことを予見しました。また、シメオンはこの幼子がやがて人々からどのような受け止め方をさえるかについて語りました。多くの人の心の思いがあらわになり、将来幼子は十字架にかけられ、母マリアの心さえも剣が刺し貫くことになると預言しました。

 神殿にはもう一人、救い主を待ち望んでいたアンナという老婦人がいました。シメオンが神をほめたたえている「ちょうどそのとき」、一人の老婦人が近寄ってきました。彼女は宮を離れず、夜も昼も神に仕えている女預言者でした。彼女は結婚後わずか7年にして夫に先立たれてしまいます。まだ十分若かったでしょう、20代前半だったかもしれません。当時のやもめという立場もあり、決して生活は楽ではなかったかもしれません。しかしそれ以後、神殿で神を礼拝することを喜びとして毎日を過ごし、彼女もまた救い主の到来を待ち望んでいた一人でした。そして、ついに生涯最高の喜び、救い主にお会いするというもっとも大きな祝福をいただくことができたのです。(38)彼女は神に感謝を捧げ、エルサレムの贖われることを待ち望んでいる人々すべてにこの幼子のことを話して聞かせました。

 今日の個所から私たちは主の誕生を心から喜ぶ二人の老人の姿を見ることができます。二人は長い人生の中でいろいろと辛いところを通らされたことでしょう。そのような中でもあきらめずに、主を待ち望み、晩年になってついに救い主にお会いすることができたのです。それは彼らにとって癒しであり大きな慰めでありました。この一年を振り返りどのような一年だったでしょうか?教会にとっても大きなチャレンジの年でした。しかし、そのような中にあっても、平安と慰めをいただき、必要な助けをいただいて前に進んでくることができたのだと思います。主イエスが救い主としてお生まれ下さり、共に歩んでくださったことを感謝いたします。一年を振り返り、主の慰めが豊かにありますように。来年もどのような年になるか分かりませんが、希望を失うことなく前に進んで行くことができますように。シメオンが、アンナが、贖いを待ち望んでいた人々がそうであったように、私たちも主を待ち望んで歩んでまいりましょう。

12月20日クリスマス礼拝

ルカの福音書2章8~20節「大きな喜びの知らせ」

 救い主の誕生の知らせを一番最初に聞いた人たちは、野宿で夜番をしている羊飼いたちでした。彼らは仕事の性質上、生き物を世話する仕事のため、安息日を守ることや、神殿での儀式に参加することができず、律法を守ることが重要なユダヤ人社会では軽蔑されていました。また、ローマからは住民とはみなされず、住民登録の対象外でした。しかし、幼子誕生の知らせは、社会で冷遇されていた羊飼いたちに真っ先にもたらされたのです。主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が闇夜を照らし、羊飼いたちに言われました。(10~12)「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」救い主誕生の知らせは、自分たちには対象外だと思っていた羊飼いたちに告げ知らされたのです。神はこの世の弱い者や小さい者を顧みてくださるお方です。ユダヤの人々が待望していた救い主、「主キリスト」は、社会のどの層に属するかにかかわらず、すべての人のために誕生されました。

 (13~14)「すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美しました。『いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。』」突然暗闇の中にものすごい数の天の軍勢の賛美が始まりました。羊飼いたちはあっけにとられていたことでしょう。神はこの世を愛し、人々の救いのために一人子をお与えになりました。その神の御業にご栄光があるように、御子によって人々に神との平和があるようにと御使いの賛美が夜空に響き渡りました。不思議な光に照り輝いていた辺り一面は、天使たちが離れ去ると再び暗闇に包まれました。羊飼いたちはしばらく声も出なかったことでしょう。

 御使いたちが彼らから離れて天に帰った時、羊飼いたちは話し合いました。(15)「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」彼らの心には救い主を見に行こうという熱い思いが生まれていました。彼らは御使いたちに後押しされ、ベツレヘムのイエスを探しに急いで行きました。この思いに神様も働いてくださったのでしょう。彼らは「マリヤとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごとを捜し当て」ることができました。すると、羊飼いたちは御使いから幼子について告げられたことを話しました。それを聞いた人たちはみな驚きを隠せませんでした。しかしマリヤは、羊飼いたちの話をすべて心に納め思い巡らしていたのです。(20)羊飼いたちは御使いの言われた通りだったので心から喜び、救い主である幼子を礼拝し、「神をあがめ、賛美しながら」帰って行きました。神は羊飼いたちを選び、喜びの知らせを告げ知らせました。周りから相手にされず、自分たちは神の救いの対象外と考えていた羊飼いたちですが、御子イエスとの出会いによって、生きる喜びと希望が与えられ、神をあがめ賛美する者へと変えられました。今年ももう終わり新しい年を迎えようとしています。来年はどのような年になるのでしょうか。来年は希望があるのかと思ってしまいます。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」あなたのために救い主がお生まれくださいました。そこに喜びがあり希望があります。みどりごを捜し当て、お会いできますように。救い主イエス様のご降誕を感謝いたします。日々主をあがめ、賛美し、この大きな喜びの知らせをお伝えしてまいりましょう。

12月13日待降節第三礼拝

ルカの福音書2章1~7節 「飼葉桶に寝かされたみどりご」 

 (1~2)「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。」と書いてあります。このような書き出しから、著者のルカは、主イエスの誕生が決しておとぎ話や創作ではなく、歴史的事実であることを強調しています。また、この記述から当時がいかなる時代であったかを伺い知ることができます。当時ユダヤはローマ帝国の植民地下にありシリア州に属していました。ローマが「全世界」を掌握し、「パクス・ロマーナ」(ローマの平和)と言われる時代でした。しかしそれは表向きの平和であって、実際は、国家が総動員で人民を統制して管理下に置き、徴税および徴兵制度に巧みに組み込んでいくという人間性を軽視する時代でした。イエスの生まれた時代とは、支配者と被支配者が存在する世界、権力や汚職がはびこり、闇が覆っているような世界であったのです。そのただ中に救い主がお生まれになった、神が介入されたということを、ここでは語っているのです。

 徴税を目的に行われたこの住民登録は、それぞれの家系に沿ってなされました。 (4)「ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行」きました。ベツレヘムは標高約750mの小高い丘の上に位置します。南へ約140キロ、歩いて4、5日ぐらいかかったでしょう。私たちは、ここにヨセフとマリアを導かれる神様の見えない御手が働いていていることを見ることができるのです。旧約聖書の中で(ミカ書5:2)、キリストはダビデの子孫として、「ダビデの町」ベツレヘムに生まれると預言されています。彼らは、今回の皇帝の勅令により、ベツレヘムに行き、そこで赤ちゃんを産むことになります。奇しくも、救い主がベツレヘムでお生まれになるという預言が成就するのです。神様はご自身の御業のために異邦の王様をも用いられるのです。このことからも、世界の歴史を支配しておられるのは神であり、同じように、見えない御手をもって私たちの歩みも導いておられるのです。

 ヨセフとマリアがベツレヘムにいる間に、マリアは月が満ちて男の子を産みました。(7)「そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせ」ました。その子が産まれたのは家畜小屋でした。ユダヤの家畜小屋の多くは洞窟のような場所であったようです。「飼葉桶」は石製か漆喰で作った箱型のものと思われます。洞窟の場合、壁面に切り出したとも考えられます。旧約聖書で預言されてきて、ユダヤ人が待ち望んでいた救い主は、家畜小屋で生まれ飼葉桶に寝かされました。このことは何を意味しているかといいますと、父なる神と共におられた御子がその栄光の座を捨てて、誰よりもへりくだって、最も低いところにお生まれ下さったということです。そして、このことは何のためかといいますと、それは私たちを罪からお救いになるためです。「飼葉桶」とは、人間の罪を表しています。罪の中に苦しむ者を救うために、低く貧しくなられたのです。(Ⅱコリント8:9)「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」御子イエスは私たちが富む者となるために、悩んだり、苦しんだりするこの現実の世界にお生まれになりました。(7)「宿屋には、彼らのいる場所がなかったからである。」私たちの心はどうでしょうか。この時、イエス様を心の中にお迎えいたしましょう。

12月6日待降節第二礼拝

マタイの福音書1章18~25節 「神が私たちとともにおられる」

 御使いのマリアへの告知から、おそらく数か月が経った頃でしょう。マリアと婚約していたヨセフは、マリアが妊娠したことを知ります。(18)「二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」どんなにヨセフは驚いたことでしょうか。ここには、妊娠したのが「聖霊によって」と説明されていますが、この時点ではまだヨセフには何も知らされていませんでした。彼はマリアの純潔を信じたかったでしょう。しかし彼女が妊娠したという事実は日ごとに明らかになっていきます。マリアの妊娠という事実は、二人の関係が壊れてしまうだけではなく、石打の刑とされていましたので、マリヤを愛していたヨセフはそうはしたくありませんでした。この事態に直面し、彼はひどく葛藤し、思い悩みました。悩んだ末に、(19)「ヨセフは正しい人でマリアをさらし者にしたくなかった」ので、自分の方からひそかに離縁状を渡して、マリヤとの婚約を解消しようとしました。それが彼女が幸せに生きるための選択だと思ったのです。

 ヨセフがマリアを密かに去らせようと決心した時、主の使いが夢に現れて(20)「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリヤをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。」と語られました。マリアが身重になったのは、他の男性との姦淫によるのではなく、聖霊によるのだから、彼女を妻として迎え入れるようにとお命じになったのです。続いて御使いは、生まれてくる子に、「イエス」という名を付けるように命じました。「イエス」とは、「主は救い」という意味です。このような名前が付けられたのは、(21)「この方がご自分の民をその罪からお救いになる」方だったからです。外見は着飾っていても、内面はおごりや怒り、妬みなど苦々しい思いがあります。罪には当然、罰が伴います。でもイエス様がその罰を身代わりに受けてくださったのです。また、この処女降誕の出来事は単なる成り行きや思いつきではなく、神の周到なご計画であり、旧約聖書の預言の成就でした。マタイはイザヤ7章14節のことばを引用します。(23)「『見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』それは、訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である。」神であるお方が人としてお生まれくださり、私たちの弱さや悩み、苦しみをも同様に味わい、担っていてくださるのです。この預言はイエスが誕生する700年も前に語られたことばです。神の救いの計画は決して空しく終わることはありません。

 (24)ヨセフは眠りから覚めるとどうしたでしょう?疑えばいくらでも疑うことができたでしょう。自分の知らないところでマリアが不貞を働いたのだと思うこともできました。それに、神の使いが語ったのは夢の中であったのだから、悪い夢を見たのだと思うこともできました。彼は、神からのメッセージを信じて従うか、それを拒否して内密のうちにマリアと離縁するかの決断を迫られていました。結局ヨセフは神からのメッセージを信じて受け入れました。その結果、すばらしい救い主の誕生を迎えることができたのです。ヨセフがこのことを真剣に信じていたことは、(25)「子を産むまでは彼女を知ることはなかった。」ということばと、命じられた通り、「イエス」という名を付けたことによっても示されています。主イエスはすべての人の救いのためにこの地上にお生まれになりました。罪の中に生まれ、外見上はどうであろうとも心の中に醜い思いを持っている者を、その罪から救い、さらにそんな弱い者、悩む者といつも共にいてくださるために、私たちと同じ肉体をもって誕生されたのです。それがクリスマスです。このアドベントの時、恐れずにイエス様を心にお迎えいたしましょう。

11月29日待降節第一礼拝

ルカの福音書1章26~38節 「あなたのおことばどおり」

  (26)「さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。」ということばから始まります。「この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアと」言いました。マリヤは当時の慣習から、14、5歳だったと思われます。ヨセフのいいなずけで、すなわち婚約者でした。当時は、まだ一緒に生活はしていませんでしたが、二人はもう夫婦とみなされていました。御使いは入ってくると、 (28)「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と挨拶をし、マリアが神から受ける恵みについて語り始めます。(30~31)「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」マリアはひどく戸惑いました。御使いは更に、その子は、「大いなる者」となり、「いと高き方の子」つまり神の子と呼ばれる、そして、ダビデ王の跡継ぎとして、「ヤコブの家」つまりイスラエルの国を永遠に治める者になることを告げます。このことは、生まれてくる男の子が、旧約の時代から神がイスラエルに約束していた救い主であることを表しています。御使いはマリアに、神の恵みにより身ごもり、男の子を産み、救い主の母になることを伝えたのです。

(34)「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」結婚前の者がどのようにしてそのようなことが起きるのかと、その筋道を尋ねています。マリアのこの応答は疑いや不信から出たものではなく、そうなることの説明を求めたものであることが前後の文脈から分かります。マリアはこの御使いのことばを拒否することも、また逆に鵜呑みにすることもしませんでした。前向きに説明を求めたのです。(35)御使いは丁寧に答えています。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」神ご自身である「聖霊」の力によって身ごもり、その子は聖なる神の子と呼ばれると答えます。この御使いの答えに多くの人は躓くことでしょう。答えの内容が私たち人間の経験と理解をはるかに越えているからです。確かに私たちの限界がある人間の理性で考えるならば、不可能としか言いようがないかもしれません。しかし、聖書の神が、私たちの理解を越えた方であり、天地万物を造られ全能なお方であるならば、超自然的なわざを行うのも不可能ではないと思えるのです。

 マリヤの答えはどうだったでしょうか?(38)「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」当時、知らないところで身重になったということですと、婚約解消はもちろんですが、石打ちにされたりということも考えられたようです。そうでなくても、一生汚名を背負って生きていかなければなりませんでした。それゆえ、このことばの中に、マリヤの主にすべてを委ねる従順な信仰を見ることができるのです。彼女は決して救い主の母になるなどと想像していなかったでしょうが、神のご計画がそのまま自分の身に起こることを信仰によって受け入れます。私たちはマリアのゆるぎない信仰と神への従順さを見ることができます。それはどこからくるのでしょうか?若いマリアでしたが、神の偉大さを明確に知り信じていたからでしょう。「神にとって不可能なことは何もない」という全能の神様を信じていたのです。それゆえ、「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と告白することができたのです。マリアの信仰に倣う者とさせてください。

11月22日礼拝

創世記44章33節~45章8節 「良いことのための計らい」

 飢饉はカナンの地にも及び、父ヤコブは息子たちに穀物をエジプトに買いに行くように命じます。兄弟たちは、ヨセフの前に来て、顔を地につけて伏し拝みました。かつてヨセフが見た夢の通りになります。ヨセフはその兄たちの姿を見て、兄弟たちだとすぐにわかりましたが、兄弟たちはヨセフだとは気づきませんでした。ヨセフは彼らにわざと高圧的に振舞い、この国の隙をうかがうスパイだとします。ヨセフは兄たちの心を知ろうとして、弟のベニヤミンを連れてくるまで二番目の兄シメオンを人質として残し、他の兄弟たちに食糧を持たせ帰らせるのです。飢饉は激しさを増し、ヤコブは兄弟たちに再びエジプトに行って食料を買ってくるように促します。ヤコブは末の子ベニヤミンを連れて行かれることに悩みますが、ユダは自分がベニヤミンの保証人になることを約束し父を説得します。兄弟たちがエジプトに着くと、ヨセフは彼らを自分の家での昼食に招待します。ヨセフは父の安否を尋ね、久しぶりに会う弟ベニヤミンの姿を見て弟懐かしさに胸が熱くなり、涙を見せないために奥の部屋に入り泣きました。やがて彼は顔を洗って出てくると、兄弟たちに食事をもてなしました。

 ヨセフは兄弟たちが帰る時、彼らを試されます。ヨセフは管理者に運べるだけの食料で彼らの袋を満たし、代金の銀を袋の口に入れておくように命じました。そしてベニヤミンの袋にはヨセフの「銀の杯」を入れさせました。兄弟たちが町を出てまだ遠くに行かないうちに、ヨセフは管理者に彼らを追わせ、ヨセフの杯を盗んだとして、彼らを問いただします。それぞれの袋が調べられ、とうとうベニヤミンの袋からヨセフの銀の杯が出てきます。兄弟たちはヨセフのところに引き返し、ひれ伏します。ユダは、「神がしもべどもの咎を暴かれたのです。」と全員が奴隷になることを申し出ますが、ヨセフは、杯が見つかったベニヤミンだけが奴隷になればよいと言います。しかし、ユダはヨセフに今日までのいきさつを述べ、自分は彼の保証人になっているので、もしそれがかなわないなら、自分は生涯その罪を背負い続けなければならないと語ります。そして(33)「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。」と頼むのです。

 ヨセフはユダの真実な訴えを聞き、自分を制することができなくなって、(1)「皆を私のところから出しなさい。」と叫びました。人払いをして、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かし、声をあげて泣きます。(3)「私はヨセフです。」ついにヨセフは兄弟たちに自分の身を明らかにします。兄弟たちはただ呆然として、あまりの驚きに何も答えることができませんでした。ヨセフは言います。(4~5)「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」ヨセフは兄弟たちに売られたのですが、そこには神のご計画があり、神が私をエジプトに遣わしたのであって自分を責めないようにと慰めます。そして、まだしばらく飢饉は続くので、急いで父をエジプトに連れてきて、私のもとで一緒に生活するようにと伝え、彼らと抱き合い互いに語り合いました。父ヤコブが亡くなった後、兄弟たちはヨセフが復讐するのではと恐れました。しかしヨセフは再び兄弟たちを安心させ優しく語ります。(創50:20)「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。」ヨセフと共におられた方は私たちと共にいて最善をなしてくださいます。すべてのことが人の思いを超えて神の計画のうちに進められることを覚えさせてください。

11月15日礼拝

創世記39章1~5節,41章8~16節「私ではなく神が」

 ヨセフは遠くエジプトに連れて行かれ、奴隷として働くことになりました。故郷から遠く離れた場所で彼はどんなに心細かったことでしょう。しかし聖書は、その苦難の中で、(2)「主がヨセフとともにおられた」と繰り返します。ヨセフが仕えたのは、王の側近である高官ポティファルの家でした。神が共におられたので、ヨセフが行うことは何でもうまくいき、主人に信頼されて、すべての財産の管理を任されるようになりました。しかし、ポティファルの妻がヨセフを誘惑しようとし、彼女の偽りの証言によってヨセフは無実の罪を着せられ奴隷から囚人へとなってしまいます。築き上げてきた信頼は一日にして崩れ去りました。しかし、聖書は、地下牢にあっても「主はヨセフとともにおられた」と繰り返します。そして今度は監獄の長の信頼を受け、すべての囚人たちの責任を任され、監獄で行われるすべてのことを管理するようになります。

 時を経て、王に仕える献酌官長と料理官長が王の怒りを買って、ヨセフがいる監獄に投獄されました。ある夜二人は同時に夢を見ました。翌朝、ヨセフは二人の顔色が悪いのを見て尋ねると、その夢の意味がわからないでイライラしていたのです。するとヨセフは、(8)「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください。」と申し出ます。ヨセフは二人の夢を解き明かし、その通りのことが二人の身におきました。ヨセフは再び王に仕えるようになった献酌官長に、「どうか私を思い出して下さい。」と、ここから出られるように頼みますが、彼はヨセフのことをすっかり忘れてしまいました。

 それから二年後、事態は急転します。ファラオは夢を見ます。肥えた7頭の雌牛がナイル川のほとりで草を食べていると、やせ細った七頭の雌牛がやって来て、つやつやしたよく肥えた七頭の雌牛を食べてしまうという夢です。もう一つは、一本の茎によく実った七つの穂が、実のないしなびた七つの穂に呑み込まれてしまうというものでした。王の心は騒ぎ、人を遣わして、エジプトのすべての呪法師と知恵ある者たちを呼び寄せますが、その夢を解き明かせる者は一人もいませんでした。その時、献酌官長が、かつて牢獄で自分の見た夢を解き明かす者がいたことを思い出し、ファラオに告げます。それを聞いて、ファラオはすぐ人を遣わしヨセフを呼び寄せました。ファラオはヨセフに、(15)「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。おまえは夢を聞いて、それを解き明かすと聞いたのだが。」と尋ねると、(16)「私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです。」とヨセフは答えます。夢を説くのは自分ではなく、神であることを告げます。13年にもわたる奴隷状態、囚人生活から脱出するチャンスが訪れたのに、ヨセフはファラオに向かって夢を解き明かせる能力が自分にあることをアピールしませんでした。かつて「私は夢を見ました」と言って得意になっていたヨセフではありませんでした。その後、ヨセフは王の夢を見事に解き明かし、宮廷の責任者に任命されエジプト全土を支配するようになります。今日の個所は、ヨセフが奴隷から大臣へと上りつめたサクセスストーリーですが、それ以上に、共におられる神様へ信頼し、神への信仰に生き続けたヨセフの姿が記されています。「主が彼と共におられた」ということは、彼が異教の地エジプトでも主への信仰に生きたことを表しています。私たちは自分の頑張りや力でやろうとすることはないでしょうか。そのような時は、次第に疲れてきて長続きしないものです。共におられる神様に信頼して歩むとき、神様は私たちを通してご自身の御業を見せてくださるのです。主の御前に重荷を下ろさせてください。「私ではなく、神が」というヨセフの信仰に立たせてください。

11月8日礼拝

創世記37章5~11節,23~28節「夢を見るヨセフ」

 創世記37章からヨセフ物語が始まります。ヨセフはヤコブの12人の息子の中で11番目の息子でした。ヤコブはこのヨセフを息子たちの中で誰よりも愛していました。それはヨセフがヤコブの晩年の子であったからで、またヤコブの愛する妻ラケルの息子だったからです。ヤコブはヨセフだけを特別に可愛がりました。(3)「それで彼はヨセフに、あや織りの長服を作ってやっていた」と記されています。それは大変高価な物だったでしょう。兄たちは、父が兄弟たちの誰よりもヨセフを愛しているのを見て、ヨセフを憎み、彼と穏やかに話すことができませんでした。さらに、ヨセフが憎しみを買うような出来事が起こります。彼は二つの夢を見ます。(6)「私が見たこの夢について聞いてください。見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。」(9)「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました。」これらの夢の意味するところは、将来、ヨセフが彼の父母、そして兄弟たちを治める者になるということです。兄たちはますます彼を憎み、妬み、関係は険悪なものとなっていきました。

 ある日、父ヤコブはヨセフに、シェケムで羊の世話をしている兄さんたちが無事かどうかを見に行くように頼みます。ヨセフは父の命令を忠実に果たそうと長い道のりを歩いてきて、やっと兄たちを見つけます。その時、兄たちは遠くにヨセフが来るのを見て、この時とばかりに彼を殺そうと企みます。しかし、長男ルベンの説得で、殺さないで穴に投げ込むだけに止めました。兄たちはやってきたヨセフにとびかかり、(23~24)「ヨセフの長服、彼が着ていたあや織りの長服をはぎ取り、彼を捕えて、穴の中に投げ込んだ。」のでした。ヨセフが着ていた「あや織りの長服」は、父の愛のしるしであり、兄たちには非常に目障りでした。ヨセフは穴の中からどんなに助けを求めたことでしょうか。しかし兄たちはヨセフのことを知らん顔して、自分たちは食事をしていたのです。すると、ちょうどそこにイシュマエル人の商人たちがやって来るのを見て、兄のユダは「弟を殺しても何の得にもならない。あの商人たちに売ってしまおう。」と、銀貨20枚でヨセフを奴隷として売ってしまうのです。その場にいなかった長男ルベンは戻って来て、ヨセフが穴にいないことを知り動揺します。

 兄たちはヨセフの長服をとり、殺した雄やぎの血を浸しました。そして人を遣わして父のもとへ、その血に染まった長服を送り届けます。(32)「これを見つけました。あなたの子の長服かどうか、お調べください。」と、白々しく言い送ります。それを見たヤコブは、ヨセフが獣にかみ裂かれて死んだものと思い、「私も一緒によみに下っていきたい」と言って、何日もヨセフのために泣き悲しみました。ヤコブは息子たちにまんまと騙されてしまったのです。かつてヤコブは自分の父イサクをやぎでだましましたが、皮肉にも、今度は自分が息子たちにやぎでだまされることになりました。その後、ヨセフはあの商人たちによってエジプトでファラオの廷臣、侍従長ポティファルに奴隷として売られます。ヨセフはどうなっていくのでしょうか? 彼は奴隷として売られてしまいますが、神はヨセフと共にいてくださり彼の人生を導いていかれるのです。夢で見たことが実現していくのです。この突然の辛い出来事の中にも意味があり、神様のご計画がありました。私たちの人生にも神様のご計画があります。イエス様が共にいて導いてくださることを心に留めていくことができますように。