1月3日新年礼拝

ルカの福音書2章41~52節 神と人とにいつくしまれ 

 (41)「さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。」この時イエスは12歳になっていましたが、両親に連れられて「過越の祭り」の巡礼のためにエルサレムに来ていました。ユダヤでは13歳で成人となり、律法を守る成人として数えられました。イエスが12歳ということは、巡礼の義務はありませんが、成人前の準備としての意味合いがあったのでしょう。祭りが終わり、一行がナザレに帰る時に出来事が起こりました。ヨセフとマリアは、イエスはナザレに戻る人たちの群れの中に混じっていると思っていました。しかし、一日の道のりを行った時点でイエスがいないのに気がつきました。イエスが迷子になってしまったのです。二人はイエスが親族や知人の家に立ち寄ったかもしれないと考えましたが、見つかりませんでした。イエスを捜しながら来た道を戻り、とうとうエルサレムまで引き返してきました。そして出発してから三日目に、両親はようやくイエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり、質問したりしているのを見つけたのです。(47)教師たちは、イエスの聖書に対する洞察の深さに驚きました。おそらく、イエスが教師たちにした質問にはすぐれた知恵が見られ、イエスの答える言葉には、彼らの理解にまさるものがあったのでしょう。

 (48)「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」やっとわが子を見つけたマリアは、すっかり取り乱していました。迷子になったイエスのことを心配して捜すうちに三日がたっています。さらに宮でイエスを発見したことは、マリアにとって大変なショックでした。予期していなかった場所にいたからです。そのためマリアは激しい調子でイエスを叱りました。(49)それに対してイエスは両親に次のように答えました。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」ここでイエスは、神を「自分の父」と呼んでいます。神が自分の父であること、自分が神の子であることを意識していたことが分かります。自分が父に関する中にいることは当然であり、この時すでに、自分には父に託された働きを行う使命があることを自覚していたのでしょう。しかし両親にはイエスが語られたことばが理解できませんでした。

 (51)その後イエスは、神殿にとどまることはしないで、両親と一緒にナザレに戻り、両親に仕えました。それから後、30歳からの公生涯に入るまでの約18年間、イエスは両親に仕えて過ごされました。父ヨセフのことは、この後聖書には出てきません。またイエスが「大工」として知られていたところを見ると、イエスはおそらく父ヨセフが亡くなった後、長男として家計を助けて働いておられたと考えられます。イエスは神の子であるという意識を持ちながらも、人として、息子として両親に仕えられたのです。(52)「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。」少年イエスは、神様に愛され、両親や周りの人々に愛され成長していきました。神の恵みが豊かにありました。2021年が始まりました。この年も主の恵みが、いつくしみが豊かにありますように。(Ⅱコリント12:9)「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」自分の力ではどうすることもできない無力さに主のみ力が現わされます。この一年も主の恵みのうちにお導きください。

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