1月10日礼拝

マタイの福音書3章1~6節、13~17節 ”これはわたしの愛する子” 

 バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と宣べ伝えました。預言者イザヤによって(3)「荒野で叫ぶ者の声がする。主の道を用意せよ。主の通られる道を真っすぐにせよ」と言われた人でした。彼の使命は、救い主が来る前に、人々の心を救い主に向けさせ、メシアを迎えるための道備えをすることでした。「悔い改める」とは、ただ反省するだけではなく、心を180度方向転換させるという意味です。行動の変容が伴います。「天の御国が近づいたから。」とは、神が支配する国がどこかにあるといういうことではありません。「国」と訳されたことばは、元来ユダヤ人にとっては、目に見える国という具体的な意味ではなく、「支配すること」という抽象的な意味でした。つまり神の国とは、神が王として人々を支配するという意味です。イエスが王であるメシヤとしてこの地上を支配する時が近づいたから、罪を悔い改めて神の支配に従うようにとヨハネは宣べ伝えたのです。ヨハネの働きはたちまち評判となり、(5)「エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から」大勢の人が荒野にやってきて、(6)「自分の罪を告白し」て悔い改め、ヨルダン川の水に入りヨハネからバプテスマを受けました。

 (13)ガリラヤに住んでいたイエス様は、いよいよ神様の働きをする時が来たことを知り、ガリラヤの家族のもとを離れ、ヨハネがいる荒野に来られました。それは、ヨハネからバプテスマを受けるためでした。ヨハネは戸惑いました。ヨハネはイエス様と親類関係にありますので、主が自分より力のある方だと気づいていたことでしょう。主イエスは罪を悔い改める必要もなければ、バプテスマを受ける必要もありませんでした。(14)「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」と断ろうとします。(15)しかし主イエスは「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実行することが、わたしたちにはふさわしいのです。」と言われました。「正しいことをすべて実行すること」とは、神のみこころをすべて行うことでした。「正しいこと」とは、イエス様が人の姿を取ってこの世に来られ、ご自分を低くされ、十字架の死にまでも従われたことです。バプテスマを受けることも正しいことの一つであって、イエス様はヨハネと共にこのことを成し遂げようとされたのです。

 イエス様がバプテスマを受け、ヨルダン川の水から上がると、天から聖霊が下ってイエス様の上にとどまり天からの声が聞こえました。(17)「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」イエス様が確かに神から遣わされた、愛するひとり子であり、罪人をお救いになる救い主であることが示されたのです。これから公生涯をスタートするために、ご自分を低くされ、人と同じように、正しいこととしてバプテスマを受けられました。そして、これから十字架に向かっての歩みを進められます。神はバプテスマを受けた御子を喜んでおられ、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と祝福のことばを掛けられました。イエス様が確かに神から遣わされた愛するひとり子であり、罪人をお救いになる救い主であることが示されました。バプテスマが罪と汚れを洗い流すことであるなら、神の子である主イエスは受ける必要がなかったはずです。ヨハネもそれを感じていたはずです。でも主はあえてそれを受けられました。それは、ご自分が罪ある人間と全く等しい立場になるためでした。イエス様の十字架によって、私たちの罪は赦され、救われ、いのちが与えれたのです。罪深い私のために、神であるお方が人となってくださったことを感謝いたします。罪を赦しきよめてください。悔い改めにふさわしい実が結ばれていきますように。

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