11月15日礼拝

創世記39章1~5節,41章8~16節「私ではなく神が」

 ヨセフは遠くエジプトに連れて行かれ、奴隷として働くことになりました。故郷から遠く離れた場所で彼はどんなに心細かったことでしょう。しかし聖書は、その苦難の中で、(2)「主がヨセフとともにおられた」と繰り返します。ヨセフが仕えたのは、王の側近である高官ポティファルの家でした。神が共におられたので、ヨセフが行うことは何でもうまくいき、主人に信頼されて、すべての財産の管理を任されるようになりました。しかし、ポティファルの妻がヨセフを誘惑しようとし、彼女の偽りの証言によってヨセフは無実の罪を着せられ奴隷から囚人へとなってしまいます。築き上げてきた信頼は一日にして崩れ去りました。しかし、聖書は、地下牢にあっても「主はヨセフとともにおられた」と繰り返します。そして今度は監獄の長の信頼を受け、すべての囚人たちの責任を任され、監獄で行われるすべてのことを管理するようになります。

 時を経て、王に仕える献酌官長と料理官長が王の怒りを買って、ヨセフがいる監獄に投獄されました。ある夜二人は同時に夢を見ました。翌朝、ヨセフは二人の顔色が悪いのを見て尋ねると、その夢の意味がわからないでイライラしていたのです。するとヨセフは、(8)「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください。」と申し出ます。ヨセフは二人の夢を解き明かし、その通りのことが二人の身におきました。ヨセフは再び王に仕えるようになった献酌官長に、「どうか私を思い出して下さい。」と、ここから出られるように頼みますが、彼はヨセフのことをすっかり忘れてしまいました。

 それから二年後、事態は急転します。ファラオは夢を見ます。肥えた7頭の雌牛がナイル川のほとりで草を食べていると、やせ細った七頭の雌牛がやって来て、つやつやしたよく肥えた七頭の雌牛を食べてしまうという夢です。もう一つは、一本の茎によく実った七つの穂が、実のないしなびた七つの穂に呑み込まれてしまうというものでした。王の心は騒ぎ、人を遣わして、エジプトのすべての呪法師と知恵ある者たちを呼び寄せますが、その夢を解き明かせる者は一人もいませんでした。その時、献酌官長が、かつて牢獄で自分の見た夢を解き明かす者がいたことを思い出し、ファラオに告げます。それを聞いて、ファラオはすぐ人を遣わしヨセフを呼び寄せました。ファラオはヨセフに、(15)「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。おまえは夢を聞いて、それを解き明かすと聞いたのだが。」と尋ねると、(16)「私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです。」とヨセフは答えます。夢を説くのは自分ではなく、神であることを告げます。13年にもわたる奴隷状態、囚人生活から脱出するチャンスが訪れたのに、ヨセフはファラオに向かって夢を解き明かせる能力が自分にあることをアピールしませんでした。かつて「私は夢を見ました」と言って得意になっていたヨセフではありませんでした。その後、ヨセフは王の夢を見事に解き明かし、宮廷の責任者に任命されエジプト全土を支配するようになります。今日の個所は、ヨセフが奴隷から大臣へと上りつめたサクセスストーリーですが、それ以上に、共におられる神様へ信頼し、神への信仰に生き続けたヨセフの姿が記されています。「主が彼と共におられた」ということは、彼が異教の地エジプトでも主への信仰に生きたことを表しています。私たちは自分の頑張りや力でやろうとすることはないでしょうか。そのような時は、次第に疲れてきて長続きしないものです。共におられる神様に信頼して歩むとき、神様は私たちを通してご自身の御業を見せてくださるのです。主の御前に重荷を下ろさせてください。「私ではなく、神が」というヨセフの信仰に立たせてください。

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